バンコクスマートページ|バンコクライフを支える生活便利帳サイト
掲載に関するお問合わせは こちらから
JAPANESE TELEPHONE DIRECTORY & LIFESTYLE IN BANGKOK
 
タイ経済概況
タイ経済概況
出典/タイ国経済概況(2010/2011年版)バンコク日本人商工会議所発行
マクロ経済
 タイ経済概観
経済規模
 タイの経済規模をGDPの大きさでみると、2009年は9兆507億バーツ(2,636億ドル)と日本のGDPの約19分の1の規模である。また、IMFの推計によれば、2008年のタイのGDP規模は世界第33位である(日本は第2位)。
 しかし、タイでは、同程度の所得水準の他国と比べ物価が低く、名目GDPがタイ経済の豊かさを過小評価していると考えられる一方で、2006年以降は急速なバーツ高によりタイのドル建てでの名目GDPが膨れ上がっている可能性がある。そこで、タイの経済規模を、これらの影響を受けない購買力平価でみると、タイの経済規模の順位は上がり、2008年のIMF推計値で世界24位となる(IMF集計の名目GDP規模は約2,724億ドルに対し、購買力平価換算のGDP規模は約5,460億ドル)。ASEAN内では、インドネシアに次いで購買力平価で見たGDP規模が大きい国である(日本は第3位)。
 タイのGDP規模は、1960年には600億バーツであったが、20年間で約11倍(1980年の名目GDPは6,600億バーツ)となった後、1990年には2兆1,800億バーツ、1996年には4兆6,000億バーツ(当時のレートで1,810億ドル)となった。97年の経済危機によりGDP規模はいったん縮小したが、その後は順調な拡大を遂げ、2000年には4兆9,200億バーツと、経済危機以前の水準を回復し、その後も年平均7.3%程度の名目GDP規模の拡大を示している。
 2008年の一人当たりGDPは136,511バーツ(国家経済社会開発庁(NESDB)による)、単純に年平均の為替レートでドル換算すると4,092ドルである。2008年のIMFの推計値によれば、タイの一人当たり名目GDP(4,108ドル)は世界第93位であり、日本の一人当たりGDPの約9分の1である。ただし、タイの購買力平価換算の一人当たりGDPは約8,232ドル(世界第89位)であり、日本(33,957ドル、世界第25位)と比較すると、タイ国民は平均して、日本人の4.1分の1程度の購買力を持っていることになる。ASEAN内では、シンガポール(世界第4位)、ブルネイ(世界第5位)のほか、マレーシア(世界第61位:8,118名目ドル、14,082購買力平価ドル)からも大きく引き離されているが、インドネシア(世界第122位:2,238名目ドル、3,980購買力平価ドル)を大きく引き離している。

経済構造
 タイの産業構造は、かつては第1次産業が中心であったが、1980年代後半からの急速な円高・ドル安を背景とする日本企業を中心とした直接投資の流入があり、タイ国内でこの時期に本格的に拡充された投資優遇措置とあいまって、急速に工業化が進展した。1970年にはGDPの25.9%、1980年には23.2%を占めていた第1次産業のウェイトは、1990年には12.5%、2000年には9.0%にまで低下した。他方、2001年以降、当時のタクシン政権による農村部に対する「草の根政策」と呼ばれる消費・投資刺激策や、2006年以降の農作物価格の上昇を受け、農業のウェイトは2008年には11.7%へと再び上昇した。
 第1次産業が就業者に占めるシェアは1960年には82.3%、1980年には71.9%で現在も40~50%と比較的大きく、農業が主要産業であることに変わりはない。加えて、タイの農村は、都市の労働力のバッファー的な役割を担っており、景気変動により非農業部門での労働需要が変動したときには、農村の労働力がこれを調節しているともいわれている。また、雨季と乾季では農業従事者の比率は異なり、一般に、雨季は農繁期、乾季は農閑期である。
 第2次産業のウェイトは、1980年には7.6%から2000年には12.1%まで上昇し、現在も15~17%程度である。日本など先進工業国に比べ第2次産業に従事するウェイトが上昇する前に第3次産業の従事割合が増加したことが特徴で、第3次産業従事割合は1980年の20.5%から2000年には33.8%にまで上昇し、その後も上昇を続けている。

タイ経済の強み・弱み(国際比較)
 ASEAN内でタイの経済規模がどの程度であるかは先述の通りであるが、他の要素についても他のASEAN諸国等と比較することで、タイの経済構造における強みと弱みがより明らかになる。
 まず、タイの実質GDP成長率は、2008年2.5%、2009年▲2.2%であり、この2年間、ASEAN域内では低い成長に留まり、また、ASEAN平均の成長率(国連アジア太平洋地域経済社会委員会(UNESCAP)の推計によれば、それぞれ、4.0%、0.6%)を下回っている。
 しかし、ここ数年の成長率の相対的な低さは、タイでの経済活動において魅力がなくなったことを必ずしも意味しない。例えば、国際協力銀行の「2009年度版海外直接投資アンケート結果」のうち各国比較の可能なデータをみても、中期的有望事業展開先国・地域としてタイは第4位にランクされており(上位3か国は中国、インド、ベトナム。インドネシアは8位、マレーシアは11位)、かつ、生産を拡大したいと考えている企業が多いのが特徴的である。これは、同じASEAN地域内でも、タイはベトナムほどには新たな投資先として注目されてはいない一方で、収益をより具体的に判断しうるに足る事業活動上の基盤を有し、かつ、高い利益を期持できる投資先であると考えられているものと解釈できる。このことは、有望とする理由において、タイについて「産業集積がある」あるいは「現地インフラが整備されている」といった、周辺諸国と比べて一朝一夕には実現されない利点を掲げる企業の割合が際立って高いことからも窺える。
 他方、他国と比べたタイの問題点としてよく指摘されるのは、インフラが整備されている一方で物流のコストが大きい点である。道路が発達したタイではトラック輸送が主流であり、タイの物流コストはGDP比で約19%と、先進国の2倍近くにも達しており、物流コストの削減が急務となっている。また、教育の質についての問題点もしばしば指摘される。世界経済フォーラム(WEF)の国別競争カランキングによれば、タイの総合順位は133か国中36位(2009年)であったが、ランキングの構成要素の一つである高等教育及び研修については54位であった。識字率は周辺諸国と比べても高く(15歳以上人口の2000年における識字率は92.6%。UNESCAP統計による)、タイでは読み書きできる労働力の確保には問題はないー方で、熟練労働力が不足している可能性があり、これが競争力向上における重石となっていると考えられる。
 タイ経済の半世紀概観
 80年代前半や97年危機のような経済停滞が発生すると注目されるタイであるが、タイ経済は1950年代以来、常に経済成長を続けてきた。以下では、1960年代以降の経済成長について、経済・社会政策とそれによる経済社会の変化及び産業構造の変化に着目しつつ概観する。

(1)60年代から80年代前半
 1961年に策定された第1次国家経済社会開発計画では、重化学工業化政策を変更せず、まずは軽工業路線をとること、その際には基本的な社会資本の整備(交通・通信、エネルギー、教育等)を除き、民間主導で進めること、タイ企業の能力を超える場合には外国企業の援助を受けること、等が規定された。こうした考え方に基づき、タイには繊維などの企業が進出するなどの動きが盛んであった。
 また、1960年代にはベトナム戦争時における米軍兵站地として、戦争特需と米国からの援助があり、経済成長の促進要因となったが、1970年代に入りベトナム戦争が終結すると、戦争需要の縮小とともに米国からの援助も減少した。
 しかしながら、ベトナム戦争の終結がもたらした世界的なナショナリズムの潮流の中、民衆レベルでも対日貿易不均衡等を受けた日本製品不買運動(1972年)、田中角栄首相訪タイ時における反日運動(1974年)等の事件が起き、政府の政策もまた、外資規制のための立法等、選別的な外資政策が採用された。
 1973年の第1次石油ショックにより、エネルギーの多くを輸入石油に依存していた当時のタイ経済は深刻な影響を受けた。1970年代後半には高成長に戻るが、1979年の第2次石油ショックや、1980年代前半の世界同時不況は、タイ経済に再び打撃を与え、成長を鈍化させた。

(2)80年代後半から90年代前半のタイ経済と経済危機
①直接投資の増加
 1980年に発足したプレム政権では、外資規制を始めとする各種規制改革を開始し、輸入規制の緩和、輸出・地方投資・省エネ型企業への税制上の恩典等の投資優遇措置の導入など、積極的な外資受け入れ政策に転換した。また、バンコク東部約100kmに位置する東部に港湾や道路、電力などを重点的に整備する東部臨海開発計画を策定した。こうしたタイ政府部内が努力している中、1985年のプラザ合意以降急激な円高・ドル安を受け日本で利益を出しにくくなった企業の需要が合致し、安価な労働力を大量に有し、将来有望な市場ということもあいまって、1986年後半以降、タイには直接投資が急増し、急速な工業化と2桁成長を達成した。

②経済危機へのプロローグ〜国際金融のトリレンマ
 外国直接投資の増加は、設備や中間財等の輸入も増加させ、経常収支赤字を拡大させた。また、90年代前半には、日本の直接投資の中国等へのシフト、タイ企業による対外直接投資の増加などから、ネットの直接投資は減少した。
 この減少分を支えていたのが、1990年代に行われた金融自由化により民間の短期資金の借入という形で流入した巨額の外資であった。タイ経済が外国資本も導入した形で流入した巨額の投資であった。タイ経済が外国資本も導入した形で高い成長を実現するにあたり、低コスト・低リスクかつ大量の資金調達・運用は必須の条件であり、実質的な固定為替相場制と他国から独立した金融政策を維持しつつ行われた一連の金融自由化により、外国の短期資金のタイへの流入が急増した。外国資本にとってみれば、これらの政策は、国外のドル建てに比べて国内のバーツ建ての金利が高く、かつドルにほぼ固定された為替レートにより為替リスクが認識されなかったため好都合であったが、理論的には、固定為替相場制、自国独自の金融政策、自由な資本移動の3つを同時に維持し続けることができないという古典的な「国際金融のトリレンマ」という命題に反していた。つまり、経済の急速な拡大、国内の投資ブームの裏で、外資の流出が発生したときに非常に脆弱な経済構造上のリスクを内包することとなった。
 そして90年代後半に、将来の通貨下落予想が市場でふくらみ、その予想がさらなる下落予想を生むなかで、国際投機家がバーツの空売りを始めると、通貨当局は為替減価を防ぐために大規模なドル売りを先物で行ったが、巨大なバーツ売り圧力の中で、ついに1997年7月、管理フロート制に移行した。

③引き金となった経常収支赤字とバブル崩壊
 外資流出の引き金となった主なものとして、経常収支赤字の拡大とバブル崩壊があげられる。経常収支赤字は、1994年までは、バーツの実質実効レートが幸運にも安定的に推移し、輸出が高い伸びを示していた結果、赤字額は高いながらも減少傾向にあり、構造上のリスクが顕在化しなかった。しかし、1994年の中国人民元の切り下げ、1995年以降の円安・ドル高への転換より、実質実効為替レートが増価に転じると、輸出不振が生じ、1996年には輸出伸び率がマイナスとなり、経常収支赤字が再び拡大した。
 バブルについては、大量に流入した外貨は過大な設備投資を招き、利潤率の低下や資本効率の低下をもたらした。また、流入した資本の相当量が不動産投資等、直接外貨の獲得に貢献することの少ない産業への投資に向けられた。タイの銀行の建設、不動産、金融業への貸付額は、1985年の807億バーツから1990年には3,132億バーツ、1995年には9,252億バーツと膨張した。そうした状況で、1995年10月には外資政策が変更され、銀行が外貨貸し出しの際の為替リスクを一部負担しなければならなくなると、銀行の外貨貸出は抑制され、不動産業への資金供給にも急ブレーキがかかった。資金不足から不動産業は経営が立ち行かなくなり、バブル崩壊、不良債権が顕在化し、外国銀行の融資縮小を招き、潤沢であった外貨準備を徐々に減少させた。

(3)危機からの回復
 為替ペッグ制(通貨バスケット制)から管理フロート制へ移行し、それに伴い急激かつ大幅なバーツの下落を経験したことは、タイ経済にとっては大きな打撃であった。バーツは1996年の25バーツ/ドル台から、1998年初には50バーツを超えるまで減価し、1998年の平均値でも41.36バーツまで下落した。結局、為替ペッグ制の代償は、1998年の成長率を▲10.5%、株価を1996年末の831.6ポイントから1998年8月末で214.5ポイントまで下落させるなど、膨大なものであった。
 一方で、為替ペッグの放棄は、タイ経済が抱えていた問題を解消する道筋を与えた。タイ経済が立ち直ったのは、経済危機後にIMFとの合意の下で進められた財政金融改革の成果もあるが、バーツの大幅な減価と内需の停滞が、輸出力を高めると同時に輸入圧力を下げることによって、対外安定性を高めたためでもあった。経常収支は、1996年の147億ドルの赤字(GDP比▲8.1%)から、1998年には143億ドルの黒字(GDP比12.3%)に転換し、為替レートの安定化に寄与するとともに、外貨準備も再び蓄積されるようになった。こうした好転の動きの中で、IMFとの融資合意条件も徐々に金融緩和や財政刺激策が可能となるようなものに調整され、1999年以降はプラス成長を記録、2000年6月には緊急融資プログラムを終了させた。
 折からの世界経済の拡大に伴い、タイ経済も2002年以降2007年までは持続的に外需を中心とした5%成長を維持した。こうした中、経常収支も黒字を維持しつつ、財政赤字も最低限にするなど、経済運営は良好なものとなっている。
 タイの貧困と所得格差

 2010年3月に始まったUDD デモ(いわゆる「赤シャツ隊」)は、同年5月19日の強制排除をもってひとまず解散した。しかしながら、解散したときにー部デパートや商店などに放火するなど後味の悪さを残したことは記憶に新しい。こうした国内の対立に経済格差が外に出た歪みであるとの意見がある。ここでは、タイの統計で確認することができる貧困と所得格差の現状について簡単にまとめてみたい。

貧困
 タイにおける貧困ラインはNESDBが生活必需品を購入できるかどうかを基準に地域ごとに作成している。2010年8月現在公表されている最新値2007年のもので、一番低い東北地方の貧困ラインも1人あたり平均月収が1,316バーツ(約38ドル)とミャンマーの1人あたりGDP(約479ドル、月平均約40ドル)よりわずかに低い程度である。また、NESDBが公表する貧困ライン及び貧困層の割合の推移は、貧困ラインが上昇する中で、貧困ライン以下で生活する人々の割合はこの20年、特に今世紀に入り劇的に減少していることがわかる。このように、1980年代後半以降の経済成長及び医療保険導入などの経済政策が功を奏し、タイにおける絶対貧困は減少しているものと考えられる。

所得格差
 タイにおける所得格差は職業別及び地域別において顕著に見られる。職業別にみた就業者1名あたりのGDPをみると、第1次産業従事割合は40%を超えているのに対し、第1次産業から生み出される付加価値は全産業の約1割にとどまるなど、第1次産業から生み出される1名あたり付加価値が小さいことがわかる。ただし、統計上の「農業従事者」は農閑期には別の職業についている可能性があることには留意すべきである。
 また、NESDBが公表している地域別のGDP(地域経済計算:Gross Regional Product (GRP)) をみると、東北部の1人あたりGRPは全国の約3分の1、バンコク周辺の約8分の1となっている。ただし、GRP統計は都市部への出稼ぎに行っている家族から地方への仕送りを考慮していないことや、自宅で消費する米などの食費等を金額にして算入していることからここでの格差は生活実態より大きく現れていることは考えられる。このため、家計経済社会状況調査における地域別の平均世帯月収をみると、バンコク首都圏と東北部の地域差は3:1程度まで縮小することがわかる。
 いずれにせよ、東北部・農業従事者の所得は相対的に低く、人口も多いが貧困に窮するほどではない、というのが所得格差を考えるうえでの一つの示唆になるであろう。 
 資産格差については、家計経済社会状況調査においてその調査が開始されたところであり、格差が簡便にわかる公表データが存在しないことから議論を割愛するが、所得格差を含んだ経済格差についてはその原因分析も価値判断に依存するところが多く、対応策についても自助努力が含まれるところから政策的にも難しいところ、さらなる検証が必要である。

 

 

貿易・国際収支
 輸出入動向
輸出
 輸出額は2004年以降2008年に至るまで、各年とも前年比15%以上と堅調に増加し、輸出の拡大がタイの経済を大きく牽引してきた。
 ところが、2008年末9月以降のいわゆるリーマンショックによる世界経済落ち込みの影響などにより、2008年末から輸出は急激に減少し、2009年は前年比▲11.2%(バーツベース、以下同じ。)と大きく減少した。外需の縮小によって輸出が大きく減少したこともあり、タイ経済は2008年第4四半期から2009年第3四半期までマイナス成長となったが、2009年第4四半期以降は主要な経済指標もプラスに転じ、2010年の輸出額は通年ベースで過去最高を記録する見通し。
 輸出先の構成比については、2010年(1月~11月)では、タイの輸出のうち中国向け10.9%、日本向け及び米国向けがそれぞれ10.4%(僅差で日本向けが上位)、EU全体向け11.2%、ASEAN全体向け22.9%となっている。また、伸び率としては、特に、ASEAN各国向けが高い伸びで増加しており(ASEAN 全体で29.6%増)、ASEANとのFTAによって2010年1月から基本的に関税が撤廃された中国のほか、香港、インド、韓国、台湾などが20%以上の高い伸びを示している.
 品目別に見ると、コンピュータ、自動車等の工業品が輸出額の約89%を占め、コメ・鶏肉・エビ等の農水産物は約10%を占めている。各品目の動きを見ると、2009年の世界経済の低迷の影響を除けば、自動車・部品、宝石・アクセサリー、ゴム、ゴム製品、プラスチック樹脂、化学品等に着実な高い伸びが見られる。

輸入
 輸入額は2004年(前年比21.1%増)、2005年(同25.1%増)と大幅な増加で推移したが、2006年(同4.0%増)と2007年(同▲1.5%)には、政局不安定や原油価格の高騰等による内需の停帯により伸びが鈍化した。2008年(同22.4%増)には内需の改善や原油・原材料価格の高騰等によって再び大幅な増加が見られたが、世界経済の影響に伴うタイ経済の停帯により2009年には大幅に減少し、その後のタイ経済の回復により、2010年(1月~11月)には再び前年同期比30.0%増と伸びを見せている。
 輸入元の構成比については、2010年(1月~11月)では、日本が20.8%、中国が約13.3%、米国が5.8%、EUが約7.7%、ASEANが16.6%となっている。国別上位としては、ASEANではマレーシア、シンガポールのほか、アジア地域としては韓国、台湾が上位となっている。また、原油の輸入元としてアラブ首長国連邦なども上位に位置している。
 品目別で見ると、主な輸入品は原油(13.1%)、機械及び部品(9.2%)化学品(6.9%)、電気機械・部品(6.7%)、鉄鋼・製品(6.4%)、電子回路基盤(5.9%)、宝石・貴金属(5.5%)、コンピュータ・部品(4.5%)などであり、財別で見ると原材料・中間財(40.0%)、資本財(25.0%)、石油・燃料(16.9%)で全輸入額の約8割を占める。品目別の動きをみると、上位品目のうち、鉄鋼・製品、自動車部品、コンピュータ・部品などが、自動車産業をはじめとするタイ国内製造業の景気回復の影響もあり、高い伸びを示している。
 タイの貿易構造の長期的趨勢
輸出
(ア)タイが国家計画に基づく経済社会開発を開始したのは1961年のことであるが、その後の輸出はタイ経済にとって重要な外貨収入源であり成長源であった。輸出額は1960年の86億バーツから1980年1,320億バーツ、2000年2兆7,738億バーツ、2010年には5兆6,500億バーツを超える水準へと増加している。輸出の平均増加率の推移を見ると、1980年代前半の停滞期を挟んで、1971年から1980年までの10年間が平均25%増、1986年から1995年までの10年間が平均22%増と、2つの輸出急伸期が認められる。1970年代は、1960年代の輸入代替工業化に伴って生じた貿易収支の悪化に対応して、輸出振興が重視されるに至った時期であり、1980年代後半以降の輸出急伸はプラザ合意後の円高等を背景に日系企業を中心とする海外直接投資が急増し、輸出生産拠点のASEANへの展開が起こったことを反映している。

(イ)1960年代前半、総輸出の85%は一次産品であり、米、ゴム、錫の3品目で輸出の60%を占めていた。1960年代から軽工業製品の輸出が伸び始め、1970年代に入って、食品加工・繊維産業を中心に工業製品の輸出が拡大し、タイの輸出構造は急速な変化を始める。加えて1970年代後半にはICが登場し、1980年には一次産品51%に対して工業製品輸出が32%を占め、その後一次産品の市況の低迷等もあり、1986年にはタイの歴史上初めて工業製品輸出が一次産品輸出を上回り、全輸出の55%を占めた。

(ウ)1985年のプラザ合意による円高は、日系企業をはじめとして、投資環境が良好であるタイへの直接投資の急増をもたらした。この結果、1980年代後半以降は、投資企業の輸出の本格化に伴い、工業製品を中心とした輸出拡大と、輸出品目の多様化が進展した。例えば従来国内市場指向の家電産業と輸出指向の電気・電子部品産業の二重構造であったタイの電気・電子産業は、日系企業が生産拠点のアジア展開を計った結果、家電産業においても輸出性向が上昇した。
 また、1997年に始まるタイの通貨・経済危機によるIMF支援下の財政・金融引き締め政策は、内需減少を深刻なものとした。その結果、例えば主として内需向けとして投資を行ってきた日系の自動車産業はピーク時の4分の1まで内需が縮小し、ピックアップトラックを中心に輸出を本格的に拡大させる方向に動いた。

(オ)タイ政府による外国投資振興策、輸出振興策と相まって、タイは、自動車、電気・電子産業中心にこれらの裾野産業も発展するなど、産業集積が進んだ。また、日系企業の中にはタイを中国に続く第2の生産拠点として投資を進めるなど、タイをASEAN最大の輸出拠点と位置づける動きが見られてきた。

(カ)近年は、タイ投資委員会(BOI)によるエコカー政策の推進など投資促進措置の充実により、日本からタイへ生産移管や投資の拡大が進むとともに、リーマンショックによる経済の停滞からの脱却と相まって、日系企業にとっての輸出拠点としてのタイの位置づけはより強固なものとなってきている。タイ政府による外国からの投資優遇策の充実のみならず、円高の進展や東アジア地域における生産の国際分業化が進む中でのタイにおけるFTAの枠組み整備の進展なども、これらの動きの追い風となってきている。

輸入
(ア)タイは、農産品についてはほぼ自給を達成しており、工業製品と燃料とを多く輸入に依存してきた。輸入額は1960年の95億バーツから、1980年1,900億バーツ、2000年2兆5,000億バーツ、2005年4兆8,702億バーツへと増加している。1960年代と1970年代を通じた20年間に、タイの輸入は平均年率16%で増加し、対GDP比は1960年の17%から1980年の28%にまで達した。しかし、この対GDP比率上昇は専ら原油価格の高騰によるものであり、その他の輸入品の対GDP比は殆ど変わっていない。この間に、石油を含む燃料の輸入全体に占める割合は1970年の9%から1980年の39%へと急拡大した。

(イ)1980年代後半以降になると、直接投資の大量流入に伴う資本財の輸入が急増し、輸入全体に占める資本財の比率は1985年の30%、1995年には46%まで急拡大した。一方、国内天然ガスによる代替化の進展、石油価格の低迷などから、燃料の輸入シェアは1980年の31%から1995年の7%まで低下した。1997年に始まる通貨・経済危機に伴う国内需要の落ち込みにより、バーツの切り下げにもかかわらず1997、98年の輸入は減少したが、1999年以降、工業生産の回復に伴う原材料及び部品の輸入増から、輸入は再び増加している。その後、日系企業の自動車産業を含む外資企業の輸出拠点としての重要性が増していく中で、輸出・内需向け製品の原材料・中間財の輸入が高い水準で推移を続けている。

(ウ)エネルギーについては、原油高に伴う原油輸入の急増を主困として、2004年から輸入は20%を超える伸び率で推移し、2006年、2007年には内需停滞等により一旦伸びが鈍化したものの、2008年には内需の改善、原油価格の更なる高騰等によって再び大幅な増加が見られた。なお、輸入全体に占める燃料の比率は1995年の7%から2008年には20.7%まで上昇しているが、2009年の世界経済の停滞などの影響を受けて、2008年をピークに減少傾向にある。

 対外通商関係

日本とのFTA
①日タイ経済連携協定(JTEPA)
 日タイ経済連携協定(JTEPA)は、我が国にとって、シンガポール、メキシコ、マレーシア、チリに続いて5番目の経済連携協定であり、2007年11月1日に発効した。JTEPAは、物品及びサービスの貿易の自由化・円滑化、投資機会及びビジネス環境の改善、知的財産権の保護、人の移動の円滑化、中小企業等の分野における協力などを内容としており、日・タイ間の貿易・投資拡大等により、両国間の経済が一層緊密化すること、また、東アジア地域との経済連携強化への推進力となることなどが期待されている。
 物品の貿易については、協定発効から10年以内に、日タイ往復貿易額の約95%についての関税が撤廃されることとなる。(タイから日本への輸入額の無税割合は約80%から約92%に、日本からタイへの輸出額の無税割合は約17%から約97%となる)
 タイ側の主な約束事項としては、自動車・自動車部品分野では、①3,000cc超の自動車に関しては段階的に3年間で関税引き下げ(80%→60%)、その後2010年代半ばの関税撤廃を目指して再協議を開始、②3,000cc以下の自動車(関税80%)に関しては6年目に再協議、③自動車部品に関しては5年後、エンジン・同部品5品目については7年後に関税撤廃することとしている。鉄鋼分野では、①日本から輸入する全ての鉄鋼製品について10年以内に関税撤廃、②熱廷鋼板についてはタイでは生産できない一部品目の関税を即時撤廃、酸洗材等3品目に対し無税枠を設定、無税枠対象外品目に関しても10年後に関税撤廃することなどが定められている。また、農水産品としては、りんご、なし、もも(関税はそれぞれ10%、30%、40%)について関税を即時撤廃することとしている。
 日本側の主な約束事項としては、鉱工業品についてはほぼ全ての品目について関税を撤廃するほか、農水産品としては、えび・えび調整品(関税1%~5.3%)や熱帯果実(マンゴー、マンゴスチン、ドリアン等。関税~3.0%)は関税即時撤廃、鶏肉・鶏肉調整品は5年間で関税削減(それぞれ、11.9%→8.5%、6%→3%)、バナナ及びパイナップルについては関税割当を設定することとしている。

②日ASEAN 包括的経済連携協定(AJCEP)
 日ASEAN 包括的経済連携協定(AJCEP)は、アセアン全体(10ヶ国)と日本との経済連携の強化を目的とした日本初の多国間経済連携協定であり、日本とASEANとを1つのエリアとして自由な経済圏を制度化し、双方の経済を活性化するものである。
 近年、電子・電気、自動車産業を中心に、各地域の特性と業種の特性に応じて最も適した地域で最も適した製品を作り、そして当該製品を必要としている市場へ販売するという製造の国際分業の進展がみられている。他方、電子・電気、自動車等の完成品を構成する部品の中には、生産に高度な技術を要する高付加価値品も存在することから、これらの高付加価値品については日本国内での開発と一体となった製造が引き続き不可欠である。AJCEPの発効は、このような日本企業を取り巻く産業構造の変化に対応し、日本から輸出される基幹部品・高付加価値品を部品として含む製品が日ASEAN域内を無税で流通することが可能となるという点において非常に大きな意義がある。
 AJCEPは2008年4月に日本とアセアン各国との間で署名を終了し、同年12月から発効している。(2010年9月現在、ASEAN10ヶ国のうち、インドネシアを除く9ヶ国において効力が発生。インドネシアは国内手続きを継続中)。

その他、主要国とのFTAの状況
①対豪州
 2004年7月にタイ一豪州間でFTAが署名され、2005年1月1日に発効した。タイにとっては、モノの貿易をカバーする初めての本格的なFTA。豪州及びニュージーランド-ASEAN間のFTAについては、2009年2月に署名、2010年3月にはタイとの間でも効力を発生している。

②対ニュージーランド
 2005年4月19日タイ-ニュージーランド間でFTAが署名され、同年7月1日に発効した。タイ豪FTAをモデルとするもの。豪州及びニュージーランド-ASEAN間のFTAについては、2009年2月に署名、2010年3月にはタイとの間でも効力を発生している。

③対インド
 2004年9月から、「アーリー・ハーベスト」として82品目の関税が先行的に引き下げられている。この中にはマンゴスチン・ドリアン等の農産品の他、一部家電製品、自動車部品等多様な品目が含まれている。「アーリー・ハーベスト」以外の品目を広範に含むFTA交渉についても、2011年中の署名、2012年の発効を目指すことを両国間で合意している。印-ASEAN間のFTAは2009年8月に署名され、タイとの間では2010年1月に効力を発生している。

④対中国
 タイと中国との間のFTAは、中国-ASEAN間FTAの枠組みの下で進められてきた。中国-ASEAN間FTAは、2003年10月から、「アーリー・ハーベスト」として先行的に野菜・果物の関税が撤廃され、2004年1月からはその他農産物の関税引き下げも開始された。さらに、2005年7月から工業製品(センシティブ品目を除く)の関税引き下げが開始され、2010年1月からはセンシティブ品目及び一部品目を除くノーマルトラック対象品目の関税が撤廃された。

⑤対韓国
 タイと韓国との間のFTAは、韓国-ASEAN間FTAの枠組みの下で進められてきた。2005年より本交渉を開始し、物品貿易部品に関しては、2007年6月より順次発効したが、タイのみが、韓国側がコメを対象品目から除外していることを理由に署名を拒否し、交渉を継続していた。2007年末、韓国が鉄鋼、化粧品、革製品のタイによる関税削減に猶予期間を与え、冷凍えび、タピオカ粉などの関税削減・撤廃に合意したため、タイ・韓国間の交渉は妥結した。タイは2009年2月に署名し、韓国-ASEAN間FTAの枠組みの下でタイと韓国との関税削減は2010年1月1日に開始した。

⑥対ペルー
 2004年1月に交渉を開始し、2005年11月にはアーリー・ハーベスト議定書に調印し、一部品目の関税を先行して削減した。2010年11月に第三追加議定書に調印し、2011年前半の発効を目指している。

⑦その他
 ASEAN+6(日本、中国、韓国、インド、オーストラリア、ニュージーランド)の枠組みでのEPA(CEPEA)については、2009年に政府間で議論していくことが合意されており、今後の動向が注目される。また、EUとのFTAについては、EU-ASEAN間の枠組みでの交渉が中断されているが、EUはシンガポール、ベトナム、マレーシアといった個別国間での交渉を開始しており、EUとタイとの交渉についても今後の動向が注目される。

日タイ貿易
(1)貿易収支
 日本はタイにとって第1位の貿易相手国(対世界シェア15.5%、第2位の輸出先、第1位の輸入元、2010年1月~11月)である。日タイ貿易は恒常的なタイの輸入超(対日貿易赤字)構造になっている。
 工業分野については、タイから世界への輸出のうち一定割合は、タイの日系企業が生産する工業製品が占めていると考えられるが、これら日系企業が生産した製品の輸出先が世界の市場に分散しているのに対し、投入財の供給元は高付加価値部品や生産設備・機械を中心として日本からの輸入に多くを依存しているため、結果として日本とタイとの二国間貿易収支において恒常的な不均衡が生じているものと考えられる。

(2)輸出
対日輸出の主な品目は、機械・電機製品等の工業製品が約73%、鶏肉・水産加工品等の農産品・農産加工品が全体の約24%、を占める。日本向け輸出に占めるシェアを品目別に見ると、工業製品としては、コンピュータ(6.0%)、自動車・部品(5.9%)、集積回路(4.7%)農産品としては、鶏肉(3.6%)、缶詰等の水産加工品(2.9%)などが高い数値となっている。

(3)輸入
 日本からは、自動車関連産業をはじめとするタイへの直接投資に伴う日系企業の活動を反映して、原材料・中間財(44.6%)、資本財(37.0%)の輸入が多い。更に、品目別に見ると、機械・部品(18.8%)、自動車部品(9.9%)、電気機械・部品(9.2%)など、機械機器・部品が全体の約40%を占めるほか、鉄鋼・製品(13.9%)、化学品(7.3%)などの素材も高いシェアとなっている。

 

 

外国投資

タイの外資政策の変遷
 タイの経済発展において外資が果たしてきた役割は大きく、外資政策は経済・産業政策の重要な柱となってきた。タイ政府の外資に対する姿勢は、当初から開放的であった訳ではなく、その時々の内外の経済情勢等を反映して変遷してきた。ここでは外資政策の流れにいくつかの節目を付けBOIの政策を中心に概観する。
 BOIは1954年制定の「産業奨励法」に基づき設置され、その後1977年に改正された「投資奨励法」の下、意思決定は首相を議長とする委員会に、運営は委員会のメンバーである長官をヘッドとする事務局により行われている。BOIは、タイ経済の発展に寄与する投資案件に対して広範な財政的または非財政的な特典や保護を与える権限を有するとともに、内外投資家に対する情報提供を行っている。
 タイの外資政策は、1970年代前半のナショナリズムの高揚に伴い制約的姿勢への揺り戻しが見られた時期を除き、基本的にはBOIを中心に外資の積極的な導入を図ってきた。1980年代後半以降は、高度経済成長の下、タイ向け投資が急増し、国民所得も向上したが、他方地域間の所得格差の拡大、インフラの未整備や技術者等人材の不足などボトルネックの発生、エネルギー・環境問題などの経済社会問題が顕在化し、投資政策においても量的拡大から質的拡充への転換、さらにはインドシナ等近隣諸国への投資支援など多面的な政策展開が求められた。そして、1997年のタイに端を発したアジア通貨・経済危機時には、経済困難克服のための緊急的な支援とともに、競争力向上のための中長期的視野に立った産業構造調整が必要とされた。

在タイ日系企業の進出の状況
 世界有数の産業集積拠点の一つとなっているタイには、比較的早い時期から多様な業種の日本企業が進出しており、今やタイ経済の中で日系企業は重要な位置を占めている。
 日系メーカーの自動車、電気製品をはじめ、デパート・スーパー・小売店、日本食レストラン、また日本のアニメ・漫画やファッション等、経済だけでなくタイ人の生活に関わる様々な分野で、日系企業を媒介とした日本のプレゼンスが日常的に感じられる。
 タイにおける日系企業の活動を把握する上で、考慮しなければならない重要な要素として、広範な中小企業の存在があげられる。日本国内外を問わず、優良な品質のモノやサービスを生産・供給するための環境として、広範なサポーティング・インダストリーの存在が欠かせない。タイには日系企業のサプライ・チェーン、サービス・チェーンが非常に厚い層として存在している。
 しかしながら、タイに根付き、タイで活動している日系企業の全体像を把握することはたいへん難しく、正確な統計は存在していないのが現状である。盤谷日本人商工会議所は、約1,300社の会員企業を擁しているが、タイで事業展開している企業のすべてを網羅しているわけではない。
 今後、タイにおける日系企業、とりわけ日系中小企業の活動を促進させる支援を行い、かつその時点ごとの課題をくみ取るためにも、タイにおける中小企業の概要を的確に把握する必要がある。

タイ日系中小企業の課題
 今回は、タイにおける日系企業の概況、この中で特に中小企業の位置づけについて紹介をした。大きな傾向として、タイへの日系企業の進出には、①1985年のプラザ合意を受けた円高後、1980年代後半からの進出、②1997年のアジア通貨危機後、2000年前後での進出、そして③近年の日本における長期の需要低迷、アジアにおける経済統合の流れを受けた進出といった波があり、時代が経るに従って中小企業の進出が多くなってきている。
 また、タイにおける特徴として、日本に親会社がない日本人「個人」が株主となっている企業が相当数存在している。
 これら中小企業や個人が株主となっている企業の多くは、タイにおける日系企業のサプライ・チェーン、サービス・チェーンの中で取引を行っており、日系企業の活動を支える基盤となっており、このことがさらにタイの比較優位としても評価されている。
 タイでの日系企業進出歴史は長いことから、会社設立にあたっての手続き、税制、会計、人事等の経営管理に関する情報が豊富にあることが、上記のような中小企業、個人による会社の日系企業進出を促進させている。
 資金調達については、多くの企業が日本の親会社からの資金融通や親会社の信用を背景にした調達を行っているが、リーマンショック後の2008年から2009年にかけての景気後退局面では、一時的に賃金調達が困難になった企業が散見された。そのため資金調達に関する相談が、JETROバンコクセンターや盤谷日本人商工会議所、各金融機関に多く寄せられた。この際、タイにおける担保物件がないことから、タイの民間・公的金融機関の融資審査を通らないなどの課題も浮かび上がってきている。また、タイの公的金融機関は、タイ資本が過半を占める企業を対象としており、現時点で日本資本が過半を占める企業はこれら公的金融機関の利用ができない状況になっている。
 今後、より多くの中小企業や個人の日系企業の進出・設立が予想される中で、円滑な事業資金の調達に向けた取り組みが必要になっている。

 

 

労働
 雇用情勢

就業構造
 国家統計局の2009年労動力調査によると、タイの総人口は6,688万人で、このうち労働力人口は3,843万人、労働力率は72.8%となっている。ほかに、15歳未満人口が1,403万人、家事従事者、学生、就労不能など15歳以上の非労働力人口が1,439万人いる。労働力人口の内訳をみると、季節労働者15万人を除く一般就業者が3,771万人、完全失業者が57万人で、完全失業率は1.49%となっている。
 季節労働者を除いた一般就業者3,771万人について内訳をみると、まず産業別構成では農林漁業従事者が39.0%と最も多く、次にサービス業、その他20.2%、商業金融業17.0%、製造業14.3%が続いている。
 職種別構成では、主なものとして、農林水産業従事者が35.0%、販売サービス業17.7%、手工芸関係12.1%、プラント機械関係7.9%などとなっている。なお、いわゆるホワイトカラーについては、法制関係・公務員・管理職2.8%、専門技術職8.1%、事務職3.9%となっている。
 さらに、業務上の地位別構成をみると、貸金の支払いを受けない家族労働従事者が768万人(20.4%)いるほか、雇なし自営業者(雇用せず雇用もされない単独の事業者)が1,210万人(32.1%)と一般就業者の3割を占めていることが特徴的である。民間企業の被雇用者は約1,344万人(35.6%)、公務員は337万人(8.9%)であり、公務員の割合は高い。
 タイの雇用には学歴が大きな影響を及ぼすといわれているが、高等教育を受けた人材、特に工学・技術系の人材の不足が指摘されており、企業によっては人文系の人材を技術系業務に配置することも多く行われている。一般就業者の最終学歴をみてみると、学歴のない者が3.8%、初等教育修了までの者が52.6%、中等教育修了までの者が28.7%、大学卒以上(修士課程、博士課程を含む。)は13.3%となっている。

国内雇用情勢
 タイでは、1980年代後半から1990年代中ごろまで、工業化と経済成長に伴って企業からの求人が増加し、労働市場は需要が伸びつつ推移し、失業率も減少していた。しかし、1996年末ごろから景気後退を背景に求職者が急増し、経済危機以降は内需関連企業を中心に大規模な解雇が行われたことなどから失業者は増大し、1997年に50万人(失業率1.5%)であった失業者数は1998年には142万人(4.4%)に達した。その後農村部への吸収、輸出関連産業を中心とした求人増加等を背景に2000年以降は減少を続け、2008年の失業者は52万人(1.38%)となっている。
 2008年後半のリーマンショック以降、タイにおいても景気が急速に悪化し、2009年第1四半期は輸出関連を中心に減産が行われ、非正規従業員の雇い止めや解雇が行われ、失業率は2.1%まで上昇した。しかし、第2四半期以降は景気回復に伴い、雇用情勢は急激に回復し、第4四半期には失業率は1.0%となり、バンコク周近の工業地域においては深刻な人手不足となっている。
 なお、企業による求人活動は、雇用事務所における求人、民間の職業紹介機関の利用、新聞その他メディアを通じた求人及び企業による張り紙広告などが一般的である。

 

 

政治
 政体
タイは正式にはタイ王国 (Kingdom of Thailand )と称し、1932年6月の「立憲革命」以降立憲君主体制をとっている。以来、今日に至るまで十数度にわたるクーデター及び憲法の改廃を経ているが、政体に変更は無い。
 王室
現チャックリー王朝(ラッタナーコーシン王朝ともいう)は、1782年にチャオプラヤー・チャクリー将軍(ラーマ1世)によって創設され、以来首都はバンコク(クルンテープ)に置かれている。以後、現王朝は9代まで続いており、現プーミポン国王陛下は9世王にあたる。
 現国王プーミポン・アドゥンヤデート陛下(His Majesty King Bhumibol Adulyadej )は1927年12月5日の御誕生。1946年6月9日、急死された実兄のラーマ8世アナンタ・マヒドン陛下の後を受けて即位(但し、戴冠式は1950年5月5日)された。シリキット王妃陛下(1950年4月28日御成婚)との間に、ウボンラット王女殿下、ワチラロンコーン皇太子殿下、シリントーン王女殿下及びチュラポーン王女殿下がおられる。
 現国王陛下は、1987年、「大王」(マハラート)の尊称が奉呈され(現王朝では、ラーマ1世、5世に続き3人目)、1988年には歴代タイ国王の中で在位最長記録(ラーマ5世チュラロンコーン大王の在位期間42年22日間を更新)を達成された。また、2006年御即位60周年を迎えられ、世界25カ国の王室からの出席を得て慶祝行事が盛大に行われ、我が国天皇皇后両陛下も同行事御参列のためタイを訪問された。翌2007年12月5日には、国王陛下は80歳を迎えられた。
 なお、2008年1月、国王陛下の姉君であるガラヤニ王女殿下が御逝去されている。
 国王陛下は、憲法により神聖不可侵の元首と規定され(右を受けて刑法は不敬罪を定めている)、国軍を統帥する立場にある他、仏教の擁護者である旨規定されている。
 憲法

クーデターと2007年憲法
 タイの憲法は、1932年6月の立憲革命による臨時憲法公布以来、クーデター等により今日まで頻繁に改廃されてきた。
 1997年10月11日、91年憲法に代わり、タイ16番目に当たる憲法が発効し、以来約9年にわたり施行されてきたが、2006年9月19日、ソンティ陸軍司令官をはじめとする軍によるクーデターが起こり、同憲法は廃止され、これに代わって暫定憲法が発布された。
 暫定憲法には国会の役割を果たす国家立法議会(議員250人以内)の設置等の他、新憲法の起草手続きが制定されており、これに従い、暫定政権として発足したスラユット政権の下で新憲法の起草作業が進められた。憲法起草委員(35名)が第一委を起草し、国家関係機関及び一般国民の意見を参考に修正を行い、憲法起草会議(100名)により最終草案が決議された。同案は2007年8月19日、タイ政治史上において初めて実施された国民投票によって過半数の賛成票を得て採択され、8月24日、国王の裁可を経て発効した。

2007年憲法の特色
①全体の構成
 新憲法は、15章から成り、経過規定も含め全体で309条にのぼる。我が国においては法律事項である選挙制度、各種政府機関の設置に関する細則まで憲法において定められている。
 全体の構成は次の通り。
第1章「総則」、第2章「国王」、第3章「タイ国民の権利と自由」、第4章「タイ国民の義務」、第5章「国家の基本政策方針」、第6章「国会」、第7章「国民の直接政治参加」、第8章「金融・財政・予算」、第9章「内閣」、第10章「裁判所」、第11章「憲法に基づく独立機関」、第12章「国権行使の審査」、第13章「政治職者と国家職員の倫理」、第14章「地方行政」、第15章「憲法改正」、経過規定。

②97年憲法との比較
 97年憲法は、政党政治の腐敗防止等を眼目とする一方で、上院の公選制、下院の小選挙区比例代表併用制の導入等により民主主義の一層の発展を目指した。しかし、同憲法に基づいて行われた総選挙の結果、タイの政治史上初の巨大政党(タイ愛国党)及び同党の単独政権(タクシン政権)が誕生し、与党による議会独裁、政治家の汚職・不正蓄財、官僚組織への不正な介入等の問題が指摘されるようになった。2007年憲法では、下院における中選挙区制、上院における公選制と任命制の並立の導入、政治家の汚職防止、国権行使の監督強化などが定められているが、これは、タイ愛国党のような巨大政党の出現を防ぎ、政治家に対するコントロールを強める意図があると言われている。
 2007年新憲法の主要点は次の通りである。
(a)タイ国は、国王を元首とする民主主義制度をとる一体、不可欠の王国
(b)主権在民  

 

 

立法

国会は、下院及び上院をもって構成される二院制制度をとっている。下院議長が国会議長、上院議長が国会副議長となる。
 法案の発議権は内閣、下院議員、裁判所もしくは憲法に基づく独立機関及び国民にあり、全ての法案は先ず下院に提出される。下院で可決された法案は上院に提出された後、上院は60日以内に審議を終了することを要し、これが、未了の場合は可決と見做されるなど下院優先が規定されている。
 上院は、各県1人の選挙で選ばれた者(76名)と選出された者(74名)の計150名に議員で構成する。上院議員は、出生によるタイ国籍を有し、40歳以上の学士あるいはそれ相当の教育を受け、いずれの政党にも所属しない者と規定されている。任期は6年。
 下院は、比例代表制(全国を8つのブロックに分割し各ブロックの定数を10名とする)で選出された80名及び中選挙区制(各選挙区の定数1~3名)で選出された400名の計480名で構成する。下院議員は、出生によるタイ国籍を有し、25歳以上で政党に属する者と規定されている。任期は4年。
 上下両院とも選挙権者は18歳(選挙実施年の1月1日)以上の者と規定されている。

 

 

司法

法制度
 タイの法制度は、大陸法系、英米法系、両者の影響を受けている。憲法を最高規範とし、民商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法などの基体法を中心に、破産法、労働法、税法、関税法、知的財産権法、環境保護法など主要な法律は成文法として整備されている。
 また、1997年の経済危機以降、経済関連法制の整備も進められ、その中には、労働者保護法の改正(1998年改正)、破産法における会社更生手続に関する改正、外国人事業法の改正など実務にとって重要なものも含まれている。さらに電子商取引法、集積回路の回路保護法等のIT社会に対応する法律の整備、タイの工業化に伴って製品等の瑕疵から発生する損害から消費者を保護するための製造物責任法(PL法)の制定も行われている。
 加えて、近時、労働者保護法の再改正(2008年5月27日施行)や民商法の改正(2008年7月1日施行)も行われ日系企業にも影響が大きいことから、新たな制度に対する理解と対応が求められる。また、製造物責任法(2009年2月20日施行)についても、日本法にない特色を有しており適用範囲も広いことから、十分に研究しておく必要がある。
 上記法改正に関運して、2006年のクーデター以降、外国人事業法の外資規制を逃れるため、タイ人(法人)を名目株主として利用した会社設立に対する規制が強化される方向にあり(外国人の出資比率が登録資本金の40%以上の場合、タイ側株主に過去6ヶ月間の銀行預金通帳の記録提出等が求められるのがその一例である)、今後タイへの進出を検討する日系企業については、投資に先立って株主構成の十分な検討が重要になってきている。
 更に、環境保護・環境汚染の問題への関心も高まっており、一部の地域ではあるが、憲法に定める環境保護に関する諸手続が履践されていないという市民団体の訴えを受けて、行政裁判所が複数の開発事業を差し止めるという事態も発生しており、タイへ進出する日系企業は、環境関運法規についての研究と対応がますます必要になってくるものと考えられる。
 他方、法律の整備は進んだものの、法律の具体的な解釈・適用について基準が明確でない場合もあり、実務において混乱が生じることもある。特に、2008年5月27日に施行された労働者保護法では、派遣労働者の福利について法解釈面で混乱が生じており、日系企業もその対応に困窮している。このような場合には、法律専門家の助言・協力や関係当局への問合せが重要となる。

裁判制度
 タイの裁判制度は日本と同じく三審制が原則である。第一審裁判所としては、民事事件一般を審理する民事裁判所、刑事事件を審理する刑事裁判所、家事及び少年事件を審理する家事及び少年裁判所、労働事件を審理する労働裁判所、税務事件を審理する税務裁判所、知的財産権事件及び国際通商事件を審理する知的財産権及び国際通商裁判所(1997年12月設立)、破産事件を審理する破産裁判所(1999年6月設立)がある。第二審裁判所として4つの高等裁判所があり、最上級裁判所として最高裁判所がある。これらの通常の裁判所以外に、憲法問題を審理する憲法裁判、軍関係の事件を審理する軍事裁判所及び行政事件を審理する行政裁判所(2001年3月設立)がある。
 タイの裁判所は陪審制ではなく、職業裁判官により審理され、その手続も日本と類似している。訴訟を提起するにあたっては、裁判所に対し請求額の2.5%の手数料(但し、上限は20万バーツ)及びその他雑費を支払う必要がある。これら費用以外に必要となる弁護士費用等を考慮すると、少額事件(100万円以下)は費用倒れになる惧れがある。
 判決に要する期間は、第一審の場合、事件の難易度等により約8ヶ月から3年程度かかる。但し、労働事件は労働者保護の見地から短期間で終わる事が予定されている。また、知的財産権及び国際商事事件を審理する知的財産権及び国際商事裁判所でも、審理促進の方策が取られている。

仲裁制度
 司法省の管轄の下に仲裁裁判所が設置され、国際貿昜、国際投資、知的財産権、建設契約等の紛争解決の場となっている。仲裁人として、経験ある弁護士や専門家が指名されている。仲裁において使用される言語もタイ語に限定されず、当事者の合意する言語を用いることができる。仲裁を提起するには、契約においてその旨が規定されているか、事前に双方当事者が合意することが必要であり、-方的に提起することはできない。仲裁の結果出された判断は当事者を拘束し、裁判と異なり一審限りで終結するため迅東な解決が可能である。また、タイは仲裁判断の執行に関するニューヨーク条約とジュネーブ条約に加盟しており、これらの条約に基づき仲裁判断を外国において執行することも可能である。

弁護士制度
 タイには約5万3,000人の弁護士がいるが、国際的な取引、紛争に対応できる十分な能力と経験を有する弁護士は少ない。弁護士資格は、法学部卒業後タイ法曹会の定めるー定の要件を満たせば取得出来るため、弁護士の能力にはかなりの差が見られるので、弁護士の選任にあたっては充分な注意を払う必要がある。
 弁護士報酬は、訴訟、会社設立、労働許可取得などは定額のケ-スが多いが、法律相談や契約書の作成などは実際にかかった時間を基準に定められるのが通常である。英語が堪能で十分な実務経験のある弁護士の場合、1時間あたりの報酬額は400米ドルないし500米ドル程度である。

 

 

政党

政党法
 タイでは、1932年に立憲君主制に移行して以後も戦後の1946年憲法に至るまで政党結成の自由は認められなかった。1946年当時の政党活動も、政党法が依然未成立のため、単なる集団活動に過ぎず、公的に政党としてのステータスを与えられるためには1955年9月の最初の政党法の公布を待たねばならなかった。また、1955年以降も政党法の施行は、クーデターによりしばしば中断されてきた経緯がある。
 現在の「政党法」は、2007年憲法の公布後、「下院選挙・上院議員選出法」「選挙管理委員会法」と共に憲法関連法の一つとして2007年10月6日に発効した。
 現行政党法によれば、20歳以上のタイ国籍保持者15名以上により政党を結成することができる。政党結成の届け出は選挙管理委員会に対して行われ、選挙管理委員会が政党の管理を行っている。

タイの政党の特色
 タイの政党は、共通の政治理念を共有するよりも、スポンサーでもある特定リーダーとの個人的な繋がりをもつ者の集合体であり、離合集散が多く、リーダーが欠ければ政党も四分五裂するといわれている。そのため、政党間に政策の大差はなく、基本的にはどの政党との連立も可能である。
 1973年の学生革命以後、経済成長を背景にビジネス・エリートを中心とした資本家政党が急速に力を拡大し、従来の軍・官僚を基盤とする政党を次第に駆逐するようになった。中小政党を合併吸収しつつ巨大政党に成長したタイ愛国党は、下院において単独過半数を占め、上院にも多数の同党に繋がる議員をもつことで、軍・官僚を凌ぐ勢力をもつようになった。
 資本家が政党を結成して政治参加の場を国会に求めるようになるに伴い、今までその地域とほとんど無関係であった中央の経済人が、その資金力を生かして地方で下院議員に立候補し当選するケースが増えた。このため2007年憲法では、選挙区制における立候補者の資格要件として、立候補する県で出生した者であること、立候補する県内の教育機関で5年以上継続して教育を受けたことがあるなどを加えることで選挙区に関係のない者の立候補を制限している。
 なお、2007年5月、タイ愛国党は、2006年の総選挙における同党幹部による選挙違反を理由に憲法裁判官団よりタイ政治史上初の解党処分を受け、2008年12月には、国民の力党、タイ国民党、中道主義党の3党が2007年12月の総選挙における各党幹部による選挙違反を理由に憲法裁判所より解党判決を受けた。

 

 

行政

タイの行政組織は、高度に中央集権化されており、比較的よく整備されている。その一方でタイは長年にわたり地方分権化に取り組んできているが、関連法の整備を始め未だ課題が多い。
(1)中央行政組織は、2002年10月3日、中央省庁再編が行われ、従来の1府14省庁から次の1府19省になった。新設された省は、観光・スポーツ省、情報通信技術省、エネルギー省、文化省、天然資源・環境省及び社会開発・人間安全保障省である。
(2)全国の地方行政組識は、県(チャンワット)、郡(アンプー)、地区(タンボン)、村(ムー・バーン)という中央政府による直接的な監督下にある縦割りの行政組識(県知事及び郡長は内務大臣による任命制)と、県行政機構(オーボーチョー)、自治市・町(テーサバーン)、地区行政機構(オーボートー)、バンコク都及びパタヤ特別市という公選制をとり入れた比較的自治が進んでいる行政組織が混在している。